「四つの現代化」はプロレタリア文化大革命以後の中国の新たな国家的大目標として掲げられ、四人組失脚後の中国で呪文のように唱えられるようになったスローガンである。「20世紀中に農業・工業・国防・科学技術の現代化を全面
的に実現し、中国の国民経済を世界の前列に立たせる」という内容で、 経済的に行き詰まっていた中国のその後の20年を牽引する目標だった。
1970年代終盤から1980年代にかけての中国ではどこに行っても「実現四個現代化(四つの現代化を実現しよう)」「奔向2000年(2000年に向かってはばたけ)」というスローガンが張り巡らされていた。そして具体的な数値目標も定められた。「2000年までに農業・工業・国防・科学技術の4分野でイギリスを追い越す!」とか「1997年までにシンガポールに肩を並べる」などという目標だったように記憶している。
当時の人たちはみんなこの目標に熱くなっていた。テレビのインタビューで農民に聞くと「おらが村にもトラクターが入っただ、来年にはビニールハウスで栽培を始めるだ、毛沢東思想を掲げて四つの現代化にまい進するだ!」。工場の労働者に聞くと「新しい機械が導入されて昨年より300%生産が伸びました、工・農・兵一体となって四つの現代化を必ず実現させます」。そんなことを目を輝かせて語っていた。
今、本当にそんな目標を立ててたのかを確認しようと手元の資料やインターネットを調べて見たが、見つけることができなかった。1970年代末の夢のような目標は時代の経過と共に忘れられ、「四つの現代化」というスローガン自体も1990年に入ってからだんだん見る機会が少なくなってきた。それもそのはずだ。1980年代に入って様々な経済政策が取られはしたが、歩みはとてものろかった。「四つの現代化」に「政治の現代化」も入れろなどという議論もあった。トウ小平によって画期的な開放政策がとられたと思ったら、天安門事件で一気に後退した。そんな中で「四つの現代化」は口にされなくなってきた。
その後、中国の経済は奇跡的に発展したのだが、それを「四つの現代化」と結びつけて語られることはほとんど無い。いったいあのときの目標は達成したのだろうか。
締め切りの日である2000年12月31日が来た。僕は上海にいた。
カウントダウンを待つ上海の外灘は沢山の人で賑わっていた。黄浦江の対岸の不思議な形の建築物がライトアップされている。子供の頃に見た未来の街の想像図を思い出す。
で、2001年になった。
花火が上がり、大通りの交通が封鎖され、観客が一斉に通りに駆け出す。
道の真ん中で花火を見る。期待はずれの小さな花火だった。
花火が終わっても大通りは人で一杯で、線香花火が始まった。
大量の警察官が外灘の人の波をくい止めていた。やがて封鎖が解かれ、警察官は去っていった。若い連中がいつまでも名残惜しそうに外灘をうろうろしていた。寒さが身にしみたが去りがたい雰囲気があった。
で、「四つの現代化」はどうなったんだろう。だれも触れてくれないので、僕が書いた。
|